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 前後を千春先生と萌愛さんに挟まれながら、僕は秀部へ連行された。
 昨日は学校案内を兼ねていたので気の遠くなるほどの距離を歩いた気がしたけれど、最短ルートは思いのほか早かった。とは言っても目印の礼拝堂にたどり着くまでゆうに二十分は掛かった。
 千春先生がふと足を止めて礼拝堂の十字架を見上げた。その間が不自然に長かったので僕はそれとなく声を掛けた。
「昔からあるんですよね、このチャペル」
「ああ、前は学校のシンボルだったんだ」
「もう、使われてないんですね」扉には鎖が巻かれている。
「いまはただの物置だ」
 千春先生はつまらなそうに言うと、尖った顎を草むらに向けた。防空壕の方向だ。
「じゃあ、行くか」
 草むらを抜け小さな崖を降りると、その斜面に防空壕の入り口があった。昨日白煙が上がっていたあたりはのどかなもので、小さな花をつけた下草にモンシロチョウが舞っていた。
 萌愛さんが破壊した鉄扉は元通りに直っていた。昨日は気づかなかったけれど、赤錆びた扉にはプラスティックのプレートが付いていて、妙に丸っこいひらがなで「ひでぶ♡」と書かれている。事情を知らない人にはまったく意味の分からない表札だ。
 鍵は掛かっていなかった。
 千春先生が取手を引くと扉は軋みを立てて開き、差し込んだ外光が壁の漆喰を鈍く照らした。一瞬躊躇したが、後ろからの萌愛さんの圧に仕方なく一歩踏み出す。十メートルほどの坑道を抜け奥のスペースに出た。まだ誰もいないのか蛍光灯はついておらず、中は闇に近い暗さだった。
 背後で萌愛さんがスイッチを入れる。瞬くような点滅のあと照明が灯り、防空壕の中を青白く照らす。同時に「ギャッ!」という獣の悲鳴が聞こえた。
「まぶしっ!」
 奥で机に向かっていた生きものが目を庇いながら顔を上げた。
「すまん。いたのか」千春先生が事も無げに言う。
「当然だろ! ここは私の城だ」
 しわくちゃの顔で瞼を揉みながら言う猿そっくりの女生徒は、間違いなく昨日一方的に僕へ入部を言い渡した、あの猿楽町秀代だった。
「いったいなに用じゃ、千春」
「見学者連れてきたぞ」
「見学?」まだまぶしげに目を細めた秀代部長は、チラリと僕を見て、
「お主の入部はすでに許可しておる」とほとんど事務的な口調で言った。
「そっちがしても、こっちはしてません」
「言ったはずだ。お主に選択の余地はない」
 秀代部長はそれきり取り付く島なく、机に向かいなにやら作業をはじめた。昨日の態度から考えてもこれ以上の対話は無理だろう。僕は千春先生に視線を送り退室の許可を求めた。
「仕方ないな」
「ええ、じゃあ僕はこのへんで」
「諦めろ」
「はい?」意味が分からなかった。
「諦めて秀部に入れ」
「ええーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
 なんでそうなるんだ? 僕はただ入部を断るために、その義理を果たすためここへ来たに過ぎない。千春先生もそこは了解済みで僕を連れてきたはずだ。なのになぜ、その先生がこうもあっさり手の平を返すのだ!
「実はもう、仁の仮入部手続きは済ませたんだ」
 聞いてない聞いてない、仮入部なんて聞いてない! 
「まあ、落ち着け。後でちゃんと説明するつもりだったんだが、これは学園側の規則でな。ここの生徒は入学後一週間以内に、どこかの部活に所属せねばならんのだ。君は転校初日に入院してすでに一週間経っていたからな。秀代から訊いたあと、とりあえず仮申請だけしておいたんだ」
「それにしたって!」
「これでも気をつかったんだぞ。正式の入部は本人の確認を取ってからにしようとな。なにたかが仮入部だ。嫌なら取り消し申請を出せばいい。ただし正式に入る部活が決まらないと受理できんけど」
 たとえ仮入部だとしてもこんな部活一時でも関わりたくはない。ただ校則を遵守しただけの先生をこれ以上責めるわけにはいかなかった。僕は目一杯苦渋の間を取って、仕方なく言った。
「……本当に取り消せるんですね」
「ああ」
「分かりました」
 明日からさっそく部活探しだ。いや、今日は土曜日だから来週からか。こうなれば前向きに考えるほかない。たしかに仮入部は思い切り不本意だけど、おかげで部活探しという一般生徒と同じ目標ができたのだ。僕はようやくこの学園の生徒としての自覚が芽生えたような気がした。
「それじゃもう、帰っていいですね」
「まあ、せっかく来たんだ。見学していけ」
「見学、ですか?」
 見学ならとっくに済ませたつもりだけれど、このまま即出て行くのも先生に対して申しわけない気がした。それに僕の背後には相変わらず命の恩人がそびえ立っている。
「はあ……」仕方なく応え、あらためて防空壕の部室を見回した。昨日はじめて入ったときはイモと備品が散乱していたが、それらもちゃんと片付けられ、壁側にはロッカー、反対の壁にはマリア観音を奉った正方形の窪みが見える。奥の壁には行き止まりの坑道が暗い口を開けていた。
 僕と先生のやり取りの間も、秀代部長は机に向かって黙々と作業に没頭していた。会話に入ってこないのは助かるけど、その無関心な態度が逆に失礼な気もする。もとを正せば事の発端は彼女なのだ。
 秀代部長の机は正面向きだが離れた場所にあって、しかも終始うつむいているため顔と手元は影になって見えない。見えないのが、もどかしい。人がやっている細かい作業は見ているうちにどうにも気になってしまうものだ。本当なら近寄りたくないけれど、おかしな誘惑に駆られた僕は静かに歩み寄った。
 秀代部長は僕が近づくのにも気づかず、ひたすら作業に没頭している。上から見ると三つ編みの分け目が一本のあぜ道に見える。肘を張った左右の腕を机の上に置き、右手は小刻みに前後している。僕は高鳴る鼓動を抑えつつ、首を傾いでその手元をのぞき込んだ。
 秀代部長は消しゴムをかけていた。
 ただしその消しゴムの下に紙らしきものはなかった。つまり彼女は「机に直接」消しゴムを掛けていたのだった。
 にわかにはその光景が理解できず、僕はしばらくその様子ただ眺めていた。指の曲げ具合からすると相当力を込めて、秀代部長は机に消しゴムをかけていた。消しゴムはすでに半分ほど摩滅し、周りにはカスが散らかっている。見ている間にも指先からはグニョグニョと消しゴムカスが生まれ、それら灰色のカスが机の微かな振動によって、まるでウジ虫みたいにのたくって見えた。
 突然咽の奥から酸っぱいものが込み上げ、僕は手の平で口を覆ってその場を飛び退いた。あまりに理解不能な光景に脳の配線が混乱し、吐き気をもよおしたのだった。なんとか飲み下し、目尻に浮かんだ涙を拭った。
「なにやってんですか、いったい……」そう訊ねるのがやっとだった。
「なにもしてない」
「してるじゃないですか」
「なにもしないをしてるのだ」
 相変わらずうつむいて作業を続ける秀代部長の口から、まるで「クマのプーさん」のような哲学的答えが返ってきた。
「我々秀部は下々の民草のように、己に足りぬものを求め、切磋琢磨するような情けないマネはせん。かといってなにもせんでおるのは退屈極まるのでな、普段はこうしてなにもしないをしておるのじゃ」
 言い方だけは厳めしいけれど、つまりはただのヒマ潰しということか。呆れてその場を立ち去ろうとすると、足下に小さな生きものを発見した。
 モグラだ。
 あの面接のとき僕のメガネを奪い取った奇妙なモグラが、机の下に落ちた消しゴムのカスをスコップのような手で掻き集めている。それだけでも充分バカバカしい光景なのに、モグラは掻き集めたカスを小さな塵取りのようなものに載せ、その塵取りをくわえてどこかへ運ぼうとしている。どこに持って行くのかとモグラの行き先に目をやると、いつの間にか地ベタにあぐらを掻いていた萌愛さんがそれを受け取った。萌愛さんはモグラから塵取りを受け取ると、そこに載った消しゴムのカスを足の間に挟んだすり鉢に移し、両手に持ったすりこぎ棒で中の消しゴムカスを練り始めた。
 なんとも言えない気持ちに駆られ、再び秀代部長に視線を戻した。視線に気づいた秀代部長がようやく顔を上げ、不敵な笑みで言った。
「こうして消しゴムは転生する」
 なんだそりゃ。
 僕は幼い頃にやったクダラナイ遊びを思い出した。消しゴムのカスを練ってまた消しゴムを再生する子供じみた実験。そんな小学生以下の遊びはこの人たちは真剣に、しかも分担作業でやっている!
「まあ、ざっとこれが秀部の活動だ」僕の肩に手を置いた千春先生が、あっさりと言ってのけた。
「仮入部といっても一応部員だからな。これから毎日顔出すんだぞ」
 誰が来るかーーーーーーーーーーーっ!

つづく